楽器の音の質感について
         2020年8月 Facebookより

『歴史的背景』
総ての芸術や科学はHierarchie(ピラミッド階層の頂点の支配者達)の庇護の元に発達を遂げて来ました。
当然、音楽も、歴史的には貴族達為政者の元や教会等の宗教の中で発展して来たのだが、その歴史は常に歴代の作曲家達の自立と自由への戦いであった。
Beethovenの第9でも、MozartのFigaroでも、音楽は常に、民衆への啓蒙活動、或いは、封建制度へのprotestの意味を持っていたのだよ。それが19世紀に入ると貴族や教会は没落し、bourgeoisという支配階層に移っていった。所謂、ロマン派時代のsalon-Koncertの時代の台頭で、勿論、LisztやChopin等の作曲家達がsalon-Koncertで活躍した。また、同時に近現代のKoncertと同じように、Weberに代表されるように、興業としてのKoncertが行われるようになった。興業としての音楽は多くの聴衆を対象に演奏をする事が出来るようになった。また、19世紀の後半からは、産業の発達とpetit-bour(geois)という階層が産まれて来て、家庭での音楽という新たなgenreが生まれた。所謂、簡単に演奏出来るeasy listeningというgenreの音楽であり、現代の発表会programやpopular音楽に繋がって行く事になる。

『楽器的な特性について』
いにしえの音楽の場合には、演奏される楽器と音楽の作曲様式と、楽器から出て来る音が、balanceが取れていて、楽器の奏でる音はとても優しく豊かで自然な無理の無い音であった。

しかし、産業革命等で、Biedermeierの時代のように、音楽を一般大衆が求めるようになって、Hallの広さや客数が膨大になった時に、これまでの楽器でも、より広い会場でも音がちゃんと届くように・・という名目で、新しい楽器の作成ではなく、古い楽器を「改良??」するという事がなされて来た。

つまり、baroque-Violinがmodernに変更されて、baroque-bowからTourteがmodern-bowを作りだし、forte-pianoからdouble actionの現代のPianoに変わった時に、広い会場でも演奏出来るように、大きな音を得るようになったと同時に、楽器本来が持っている音の豊かさ、美しさ、音の自然さが失われる事になった。

それ以前の楽器では、楽器の構造とHallの広さに対しての整合性があった(そのように楽器が開発されて作られた)のだが、今日では、その小さなHall用に作られた楽器に、無理矢理に強い音を出すように不自然に改良したので、楽器が悲鳴を上げているのだよな。

最悪の場合にはneckが折れたり、饗板が破れたりする事がある。
勿論、殆どの場合には修理不能になってしまうのだけど、「Amatiの表板とStradivariの裏板を合わせて作ったViolinを買わない?」と誘われた事があったのだけど、超美しいViolinだったけれど、音は出ないので、美術的な価値は兎も角としても、音楽的・・というか楽器としては、無駄な出費だと思って買わなかったけれど、骨董的な価値はどうなのかな??
やっぱり幾ら本物の組合せでも、所詮は、imitationかね??
「美術caseの中に入れて、美術品として売った方がより高く売れるのでは??」と聞いたら、「面倒くさいので楽器にした方が良い」との答えが返って来た。

教室では中古の外見の状態の良い安いgrandpianoを買って来て、中の機械をsteinwayの中身と総入れ替えして、内部も塗り直したりして、何台か、『でもしかsteinway』を作って貰った事があったけれど、音はやっぱり凄く美しくなったよ??

中古のgrandpiano倉庫買いで50万とか60万ぐらいで買って、総替えのsteinwayのparts(actionやhammer、弦等)が100万ぐらいで購入して(勿論、正規品だよ!)、改造費を50万ぐらいで混み混みの200万で、『でもしかsteinway』が出来たのだけど、私も「その内にお願いしょうかな??」・・と思って、とても状態の良い理想的な中古のgrandpianoを買っておいたのだけど、調律師の人に頼む前に、お亡くなりになったので、とても残念です。生徒達や保護者の人達は結構喜んでいたのだけどね??

でも、私の場合には伝があるので、結構安く本物のsteinwayを買う事も出来るのだけど、でも、自宅にはgrandpianoの置き場所がないし、mansionなので、『音出し』も出来ないので、steinwayのPianoを自宅に買うのは諦めているのだけどね??

私は作曲をする時にはPianoを使わないので、Pianoが必要ないので、電子Pianoしか置いていないのだよ。
楽器は2段鍵盤の大型のCembaloがあるぐらいで、後は弦楽器しか置いていないのだよ。

Violinの改造というのは、分かりやすく言えば、小さな2000㏄ぐらいのsports-carのengineを削って広げて(boa-upというのだよな??)排気量を上げるようなもので、それを改造車というのだが、時々環七で火を吹いて燃え上がっているのを見かけたよな??
2000㏄の格好良いsports-carが、1千万近く改造費にお金を掛けて、一瞬でお釈迦・・だよな??
(昔は環七の側のマンションにも住んでいた事があるのでね??)
普通は、違法改造を『改良』とは言わないよな??
だって、車に取っては不自然な分不相応な辛い要求をされている分けなのだから・・・

また、18世紀から19世紀への社会情勢の代わり目に合わせて、その時代には、Violinの弓やforte-pianoからmodernのPianoへの改革だけではなく、orchestraの多くの管楽器が新たに作成されたり、改造されたりして、楽器の種類が増える事に寄って、より色彩的な音を出す事が出来るようになったのだ。勿論、古いViolin等の弦楽器も違法改造をされて、現代の弦楽器になったのだよ。
弦楽器の改造に寄って大きな音量が出せるようになって、大きなHall等での演奏も可能になった。しかし、それはその反面では、美しい豊かな楽器が作られた時に楽器の製作者が抱いていた楽器本来の音を失う事になったのだよな??

『平均律と純正調』
19世紀に入って、弦楽器の改造や、新しい管楽器の登場は音楽に大きな絵画性を与えた。つまり、水墨画しか無かった時代から、突然油絵の多彩な色彩感覚で書かれたようなものだよな??同族楽器によるモノクロの世界から、fullcolorの世界への移行は、音楽の表現に対しては、絶対的な異次元の世界だったのだよ。

しかし、反面、それは純性の美しい和音の響きを失う結果になってしまった。
日本のInternetの誰かの論文で、「Pianoは平均律で、orchestraは純性の和音を出している」・・という論文を読んだのだけど、それは有り得ない間違いだ。

F管とB♭管とA管と・・・等々の楽器が、一緒にCの音を出す事は至難の業である。
時折、orchestraでも純性の音が聴こえる一瞬があるが、それは同族楽器で演奏されている箇所で、他の移調楽器が入っていない箇所に限られるのだよ。

Pianoの場合でも、forte-pianoでもCembaloでも、純性に調律された楽器は普通に存在する。
Chopinでも生涯forte-pianoで演奏していたので、調律は自分でやったはずである。
それが、double actionの現代のPianoに変わったから、調律師という職業が産まれて来たのだよ。

GoetheのDie Leiden des jungen Werthers(若きウェルテルの悩み)という名著の冒頭の一節はウェルテルが友人の家にPianoの調律に出かける所から始まるのだよ!
勿論、ウェルテルは調律師ではない。
普通の知的階層の若者である。当時のPianoを弾ける若者は調律を出来たハズである。

Pianoを弾く人達が調律の技術を習得しなくなったのは、調律の必要が無くなった、Pianoの機構的に安定してきたからで、それで調律しっぱなし、つまり、平均律が台頭して来たのだよな??

Händelの時代では美しい和音を作るために、閉じた平均律ではなく、開かれた純正調のために、分割鍵盤というのが作られていた・・というお話はこれまでも何度もしてきたので割愛する。

Bachの高弟の中には古典調律で名を馳せたJohann Ludwig KrebsやJohann Philipp Kirnbergerという人達もいた。
Bachの時代には平均律の調律法は一般的ではなくWohltemperirteという意味は、完全に調律された・・という意味であって、どこにも平均律という意味はないのだよ。
その勘違いはBachに時代に現代の平均律による調律法というのがあった・・という想定なのだ。古典調律を勉強した人ならば、その妄想はしないハズだよな??

この時代では調律というのは不安定なものであって、(Cembaloを弾く人達ならばこんにちでも至極当たり前の事なのだが、)演奏すると一曲毎に調律が狂ってしまうので、曲毎に調律をするのは当たり前の時代だったのだよ。
だからpreludeとfugaの1曲毎にWohltemperirteの調律をする曲なのだよ。でも、基本的なpitchはそのままで微調整だけなので、そんなに大変な事ではない。

まあ、・・・そういったような事は、homepageにもFacebookにも何度となく書いているのだが、今日は視点を変えて、指導者という観点にたって、その立場から音についての話をして行こうと思う。

『音の質に付いて』
20世紀も後半に入った頃から、世界の演奏家、音楽家達が求める『音の質』というのが世界大戦の前と後では変わってしまったように思われるのだよ。

それ以降の音楽家達は強い音で人を威圧するように演奏をする演奏家達が主流になって来た。
その最たるものが、破音の多様です。
破音という言葉は音響学の中には無い私の造語です。
音には楽音とされる音と楽音の範囲から逸脱する音があるのだけど、音楽が出る瞬間の立ち上がりの音でPianoの場合には弦をhammerが打つ瞬間の『打音』所謂、打撃音は楽音ではなくnoiseに過ぎません。このnoiseが強ければただの雑音、所謂、衝撃音だけの音楽になります。つまり、ピストルや爆弾の音を集めて音の高さで纏めた音楽になるのだよ。
Violinの場合にも所謂、clip音というのがある。弓を弦に松脂で接着させて、それが引き剥がされる瞬間に出る引き剥がされる音をclip音と言います。勿論、それもnoiseで楽音ではありません。

多くの人達がimageからBeethovenを捉えているので、勘違いがなされているのだが、Beethoven自身はforte-pianoの時代の作曲家なので、強い音ばかりを求めたdouble actionのPianoには、強い否定的な態度を見せていて、Beethovenの書簡では、double actionの楽器のために自分が作曲を強いられるのならば、自分は二度とPianoの曲は書かない・・とまでも言わしめている。

だからBeethovenの書く『sfz』は破壊的に強くclipを入れて、汚い音でsforzandoを演奏するという意味は無い。Beethovenの時代のsfzの意味は、強勢の移動、(拍頭の移動)という意味でしか、存在していないのだけど、それを現代の演奏家達は、古典派の時代には存在しなかったclipの奏法で乱暴に演奏する人達の多い事には困ってしまいます。
私が音楽大学時代に大学で師事していたPianoの教授に至っては「Beethoven田舎者の粗野な人だったので・・」という風に言っていて、乱暴なfortissimoやsforzandoを要求して来たよ!!
東京で美味しい本場のItalia-restaurantで修行して来たという料理人が「al denteはこういう風に・・」とか御託を並べて生煮えの芯のあるSpaghettiを「al denteだ!」というのは、困ったものだよな??
Violinの音の芯は1㍉の1/10ぐらいの糸のようなものでなければならないのだが、芯の方が周りのkonsonanzの音よりも大きいのでは、al denteにはならないのだよな??

そういった話を、音楽大学を卒業して、当時の有名なproの演奏家の人達に訊ねた時の回答は「日本人が300年も前のEuropaの音楽を幾ら真似して演奏したとしても、それは伝統にはならない。だから、日本人は日本人としての解釈をするのが当たり前で、日本人の口に合う音楽として演奏するのだよ!」と言われてしまいました。
確かに、America人のやっている歌舞伎は見たくないので「それも一理はあるのかな??」とも思ったけれど、多分音楽を追求する立場の人間が求めるものとしては、根本的な考え方が間違っていると思えるのだがね??

その間違えたままの音へのimageが、現代のpianistやviolinist達が求めている音・・そのものであるような気がするのだよな??

私は日本人のpianistの演奏するPianoの音がキンキンキャンキャンと聴こえて来て、結構、耳障りなので、中々普通に日本人の有名な演奏家達の音楽を聴く事はありません。

勿論、何人かの人は私と同じように、耳障りでない美しいeinschlagを追求している人もいるようなのですが、しかし、それは非常に少数派であって、殆どの日本人の中には入っては居ない人達なのです。
という事で、日本人のPianoの演奏家の音や、弦楽器奏者の音はeinschlagの瞬間の音(弦楽器の場合には音出しの瞬間の音)は楽音ではない破音(所謂、雑音)になっているのです。

また、音楽大学等では「強い音がしっかりとした音」と学びますが、「強い音」と「豊かな音」は、根本的に音の質感が違います。

日本人の場合には、平べったい薄っぺらい音で押さえ付けられた音でも、強い音であれば楽音と感じているようですが、それは所詮、遠音の効かない似非的なnoiseの音に過ぎません。

豊かな音は平面的な音ではなく、もっと立体的な音です。
Pianoの弦に対してhammerを無理矢理に打ち付けた音ではなく、自然にkonsonanzが響く音でなければ、楽音とは言わないのですよ。

往年の大家の演奏は、演奏すると、Pianoの音に色が付いていてPianoから色とりどりの花が咲きこぼれて来るように聴こえて来る・・というか見えて来るような演奏でした。

今の若い人達の演奏は、金属の割れる音・・か、ガラスの割れる音しかしません。
そういった音を強い音とは言わないのだけどね??

Pianoを学ぶ若者達(この場合は音楽教室ではなく音楽大学の学生達に対しての話ですが)に、「往年のpianistの演奏をレコードやCD等で聴いた事があるのか??」と尋ねたら、「名前すら知らない」と答えて来て、自分の先生の音のみが総ての音楽の根源であると自覚していたので、やっぱり音楽家達のacademismと音楽の歴史は根本的に相容れないのだよな??と自覚出来ました。
いや~あ、当時は超、Shockだったのだよ。Pianoを学ぶ学生達が誰も往年の名演奏家達の演奏を聴いた事がない・・というのは・・ね??

とう事で、楽器に対しての『音出し』の「考え方」も、Pianoを学ぶ人達にしても、Violin等の弦楽器を学ぶ人達にしても、『楽器は鳴らすものである』というimageから抜け出す事は絶対的になく、私が言っている『楽器とは鳴るものなのだ』という発想が、それがどうしても分からない・・のだよな?

まあ、先生達や周りの人達から「練習さえすれば弾けるようになる」・・と言われて、闇雲に盲信的に、「ただただ単に一生懸命に」練習をしている人達には、『工夫三昧』という言葉は、所詮は分からんかいな??

楽器を鳴らせなければ、幾ら高価な楽器を持っていたとしても、その楽器でその楽器の音を出せる事は決してないのだよ。
だから、1万円のViolinとStradivariが同じ音色に聴こえるのですよ。
どんなに優れた才能を持っている子供でも、その才能に一般的な方法論を押し付けるだけならば、普通の子供と同じにしか育たないのだよ。
そこには、その子供の資質を見抜いて育て上げる技術が必要なのだけど、それを一般の人達は認めようとはしないのだよ。Stradivariを持っていれば、Stradivariの音を奏でる事が出来る、って??
それは幻想だよ。
Stradivariを弾き熟すには、それなりの技術とStradivariに対しての奉仕の心が必要なのだよ。
曰く、楽器は鳴らすものではなく、鳴るものなのだよ。
そこの所が理解出来ないと日本の音楽家はやはり、日本の音楽家で演奏家なのだよな??

「写真はなんだ??」って??
音のimpressionですよ!!
これを「瓢箪鯰」というのだよ!!

3枚目はbaroque時代の本物の分割鍵盤です。meantoneの鍵盤の場合には、Eの音(d#)とA(g#)の音が分割になっていれば良いのだけど、全部の鍵盤が分割された楽器の方が多かったようです。Händel達はこの楽器を奏き分けていたのだよな??